会報第26号 2010.6.17 発行
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日本の安全保障を考える市民講座報告
軍隊を放棄した「丸腰国家」になれるのか?

   最近、沖縄・普天間の米軍基地移設問題について、この会報が皆さんのもとに届くころには、一体どういう状況になっているのだろうか?基地の県外移転を宣言し、それを実現できなかった鳩山首相は6月初めに辞任した。首相の指導力のなさが問われているが、しかし、どの地域の住民であったとしても、「基地を受け入れたい・受け入れても構わない」と快諾するとは思われない。結果としてどこかに落ち着くとしても、根本的な問題は解決しない。同じことの繰り返しになるだろう。
 そもそも、軍縮という方向性を現実的に考えたらいけないのだろうか?軍事に依存せずに日本の安全保障を実現していくことが、できないものだろうか??そんな疑問を持ちながら、それこそ「非現実的」との評価をおそれて口にできない人も、少なからずいるのではないだろうか。今回、とよた市民の会で市民講座の講師としてお招きした足立力也さんは、中央アメリカの小国「コスタリカ共和国」を題材にして、実に明快に上記の疑問に答えてくれた。その内容を一部ではあるが紹介したいと思う(とよた市民の会 小笠原輝美)。

●4月4日、豊田産業文化センターに講師としておいでいただいた足立さんは、まるで世界を放浪するバックパッカー青年のような雰囲気を醸し出していた(褒め言葉である)。「日本唯一のフリーランス・コスタリカ研究家」を自称する足立さんは、いかにも自由人らしいのんびりした感じの方でとても好感が持てる。コスタリカを訪れて学生として生活していた時の体験談などは、ユーモアたっぷりで、足立さんは実は噺家としてもやっていけるのではないかと思ってしまう。
 しかし、本題はここからである。足立さんは、いわゆる「抑止論」というものが、いかにまやかしであるかを説明する。冷戦時代、抑止論が幅を利かせていたが、現実には、超大国の意向にあおられる形で世界各地で紛争が勃発し続けていた。コスタリカのある中米地域もその例に漏れない。超大国の代理戦争にまきこまれていたのである。そもそも、軍事的安全保障論は平和論の一部にすぎず、その軍事安全保障論のみで平和を語るのは不可能、と指摘する。
 でも、軍隊がないとやっぱり国を守ることはできないのでは?という疑問もあるだろう。では「軍隊」とは何か?それについての定義をきちんとはっきりさせるべきだと足立さんは言う。しばしば巷では、比喩的に「警察」のようなもの、という説明がなされたりするが、全く違う。警察は行政組織であり、常に法に基づいて行動する。対して軍隊は、政治的目的達成のためには、法を超えることもあるのである。警察は、いかに犯罪者と思われる人でも決して殺すことはしてはならず、司法に引き渡すことを任務とするが、軍隊は「敵」とみなせば殺害しても構わない(政治的目的を達成するためには殺害しなければならない)。よって「常に人を殺せる心の準備」がなければ、軍隊として機能しない。そんな組織が、みんなで話し合って物事を決める民主主義の考え方と共存できるわけがない。戦前・戦中の日本や、軍が主権を握る国の状況を想定していただくとわかりやすいだろう。実際に世界各地の紛争地域に身を置いた経験のある足立さんは「有事の際は『民』より『軍』のほうが優位に立つ。その怖さといったらない」と語っている。

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