4回の県議選を振り返って
前 愛知県会議員 小林おさむ
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私が県議選への出馬を決意したのは、豊田市会議員4期目の半ばの頃、社会党から出馬の要請があったのがキッカケでした。当時の私は、政党に所属することには消極的でしたが、県議会が政党政治で運営されていることと、立場を鮮明にした方がいいという考えから、選挙の直前に社会党に入党して選挙戦に臨みました。 選挙戦は、総評系労組を中心とする社会党の勢力と、市会議員選挙を支えてきたグループと地元との連合軍の布陣でした。私の当選をマスコミは、「この地区で初めての社会党の議席獲得」と大きく報じました。つまり、私は、この地方で市民運動を担ってきたグループと社会党勢力との連携の中で、県議会に議席を得たのですが、この政治勢力を維持・拡大することができませんでした。 [別図]に4回の県議選での私の得票を掲げましたが、2回目の得票が大きく落ち込んでいます。この選挙は、はじめから落選候補がわかっている無風選挙と言われ、選対の活動が著しく鋭かったのは事実ですが、当選者でこれだけ大きく票を減らしたのは私だけですから、深刻な反省が必要でした。 いまから思えば、1期目の私の活動は、社会党の党内活動に終始していたように思われます。したがって、市民運動グループからは、「小林の選挙は社会党がやってくれるものだ」とい |
う感じがあり、社会党からは、「党外の票も取ってくれるだろう」という、もたれ合いが発生していたのです。 この2期目の選挙での緊張感の無さが、それ以降の落選の伏線となりました。 「トヨタ」民主党と路線対立へ 他方で、社会党が解体状況となり、私は鳩・菅民主党に移行しましたが、同時に、総評・地区労の解体も進み、この地方の労組は、トヨタ労連を主導とする連合へと統合されていきました。 そうした勢力とハッキリと対峙することになったのは、サッカー場問題と万博問題でした。私の政治姿勢を理由に、労組が私への不支持を表明したのは、前回の選挙の前年の11月頃からでした。 小林おさむの県議選得票数
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